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山ちゃん5963

山ちゃん5963

五十、マレーシア クアラルンプール

五十、マレーシア クアラルンプール

マレーシアにすでに赴任しているSCの設備担当が、急性肝炎にかかって(マレーシアの)自宅療養していたのだ。『山口、お前一ヵ月応援で海外出張してくれないか?』との事。『よっしゃー、それなら一ヵ月だったら、海外出張に行ったろうかい』出張先はマレーシアPNBプロジェクトだ。Perumodaran National Beruhadという。

昭和五十七年九月二十三日マレーシアに出発した。日本から約七時間、スバン国際空港に着いた。空港にはPNBプロジェクトの事務長が向かえに来ていた。ワシはなぜかイミグレーションを通過せずに外に出てしまった。なぜだろう?なんでやろう?なぜかいまだにわからん。だから、パスポートには入国スタンプがなかったのだ。それを話したから、柏木さんは『大変だー』我々は即空港にUターンしイミグレーションと交渉した。よって無事入国スタンプを押してもらえた。ひょっとして、入国審査が出来ていないと、密入国になるのかい?やばかったな。密入国と麻薬の持ち込みは『死刑』だぜ。ああ恐かったなあ。最初から幸先よくないぜ。注意一秒、けが一生。死刑になりゃすべて終わり。
そこマレーシアPNBの現場事務所には所長、副所長、設備工事長がいた。工事長は“You have to”で有名。またここマレーシアでは、ワシのひげはなかなか受けがよかった。まず、設備担当の自宅に行った。彼は意外と元気だった。なにせ肝炎だから身体に痛みはないのよ。この病気は、身体に栄養つけて休むしかなかったのじゃなあ。後年にワシも中近東イラクに行って、A型肝炎にかかったからよくわかる。まあ一ヶ月やなあ、頑張ろうぜ。設計事務所に行った。設計はローカルの設計者で中国系のマレーシア人だった。漢字で筆談ができたなあ。現場ではコアー部分はRCで先行して仕事が進められていた。機械部はタワークレーンのオペレータをしていた。彼らは毎日遅くまで仕事をしていた。

我々の住所はAnpang Kuala Lumpur Malaysiaだった。Anpangではアマさん(家政婦)が朝晩食事を作ってくれた。まずまずの生活だったと思う。Anpangから現場までの送り迎えは会社の車で行った。朝からの仕事はまずラジオ体操(日本の企業は皆同じ)、業者打合せと設計打合せ、そして施工図作成。衛生設備はPenbinan Ung(ペンビナン・ウン)という会社に下請けに出していた。社長はMr.Ungで六年後にも仕事(Lot.10 Project)で付き合うことになる。まずまずワシはマレーシアでの仕事をこなしたのではなかったかい。現場事務の女性はジャッキーさんと言って中国系で、なかなかやさしくてまたかわいい人じゃったのう。

日曜日には一人あちこち行ったもんだなあ。バツーケーブ(インデアンの神を祭った洞窟)、バタフライ標本工場(生きたさそりもうじゃうじゃいた、こわかった)、ジャランブキットビンタンで買い物、なぜかヤーウエー王国会館もあった、マラッカ古都観光、それから食事はマレーシアしゃぶしゃぶ、エビのドランケンシュリンプ、果物はドリアン、マンゴースチン、パパイヤ、スターフルーツ、ランブータン、ジャックフルーツ、ココナッツ、これはいくら紙面があってもたらんぞい。果物の本を買って帰ったわい。

マレーシアはマハティール首相がLook East 政策をとっていたから、日本から技術を輸入しようとしていた。その先駈けがPNB Project だった。また国策で、日本に学生を送り込み日本の技術力を吸収しようとしていた。

しかし、海外(外国)ちゅうのは(仕事も、ほれから仕事以外も、共に)ワシに向いておるなあ。こりゃー非常に興味が湧き起こるなあ。今後も海外にて仕事をして、また海外に住みたいなあ。ほんまにそう思うたもんじゃわい。

ところで、マレーシアの入国は観光ビザで入国していた。だから一ヵ月でビザが切れるんじゃ。よって、昭和五十七年十月二十二日いったんマレーシア航空でシンガポールに出国して、シンガポール日本人大使館でマレーシア入国ビザを取得した。これはなかなか楽しい仕事の一部分だったわい。シンガポールのホテルはアポロホテルで、伊勢丹が隣にあったのう。このビザ取得の為に二回もシンガポールに行った。二回目は昭和五十七年十一月二十一日だった。シンガポールをあちこち歩きまわったなあ。チャイナタウン。セントーサ。マレーシアもいいが、シンガポールはそれ以上にいいのうと思ったわい。またきっと訪れるぜ。待っててや。シンガポールやーい!

さて設備担当の肝炎が全快した。そしてPNB現場に復帰した。“I shall go back to JAPAN!”『ワシは日本に帰るぞや!』と言ったところ、所長は“No!”『返さない!』といいおった。なんでや。『山口や、もう一つマレーシア松下工場現場の設備を見てくれい』といいおった。ワシはしぶしぶマレーシア松下工場の設備工事管理をした。ここには工事長がいた。彼はいつも車の中で英語の勉強をしとったなあ。えらくなる輩はいつも勉強しちょるぞや。また、運転手をどなりつけとったなあ。

そして、その年五十七年十二月四日日本に帰国の途についた。所長とけんか別れのような感じでマレーシアを後にした。同姓の副所長は『帰国するのだったら、一席設けたのに…』と言ってくれた。事務のジャッキーさんがマレーシアの巻き物のお土産をくれた。運転手がスバン国際空港まで送ってくれた。ワシは余った金をドライバーにやった。ジャッキーさんには何もあげなっかったなあ。ごめんねジャッキーさん。そしてたった一人で機上の人になった。飛行機はMalaysia Air System安全だった。さらばMALAYSIA。また来ることもあるだろうと思った。テルマカシー(有り難う)そして、それは現実になった。


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